2020年7月2日木曜日

[小論文]一人の幸福とみんなの幸福

 前のエントリで、ちょろっとトロッコ問題の話をした。
 サンデル教授の講義においては、5人ではなく1人を優先するという考えの学生もいたが、恐らくほぼすべての人が5人を優先することになると思う。

 これは言い換えれば、1人(分)の幸福よりも、5人分の幸福が優先(あるいは不幸の回避)されているわけである。
 稀にある話であるが、広域縦断道路(バイパスや高速道路など)の建造の際に立ち退きの有無が問題になることがある。似たような話であれば、ダム建設時の問題などもある。まあ、インフラの建設とまとめてもいいかもしれない。
 インフラの拡張は、少なくとも少数の住人より大多数の恩恵者の幸福を増大させるということで是とする人が多いような気もする。無論、建設費は(寄付分の可能性もあるにしても)基本的に税金でしか賄われえないので、その辺りで否とする人も居るかもしれない。少なくとも、通過することが自分の得になるとすればどちらかといえば賛成程度にはなるであろう。
 単純にいえば、多数決の問題に繋がる。

 上記の件と対称として対応するのがゴミ屋敷の問題である(他にも騒音の問題などもあるだろうと思う)。
 これは、一人の幸福(片付けないことが幸福かはさておき)で周囲の平穏が阻害されている例である。既にいくつかの都道府県で行政執行を強行できることになったので、社会的に肯定されるかという話だとおそらく否になる(騒音問題も民法に規定があるので多くの場合において音源側が悪くなると思う)。

 ところで、上記二つの問題は自分の立場によって意見を変えてしまう人が多いのではないだろうか。
 前者は最終的に、地獄の沙汰も何とやらでどこかで落としどころを見つけるかもしれない。どこかの国のように、たった一軒だけ回避して道路を建造してしまうようなことはこの国にはないと思われる。
 そもそも、立ち退きを命じられた方としてはたまったものではないので、住民運動や工事の遅延が起こるのだろうと思う。
 後者は、村八分のような状態になった場合にどうなるのかという問題がある。周辺住民が結託して何らかの問題を作り出し、ある一軒を追い出すということが逆の状況として考えられなくもない。

 なんにせよ、背反である。一人の幸福に価値をおくのも、多数の幸福に価値をおくのも、状況によっては非常に危険な要素を孕む可能性があるのである。

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