2020年4月23日木曜日
楽観論と悲観論の位置関係
普通の人は、
楽観論<<<<中立>>>>悲観論
という図式だと思います。まあ、「悲観」の対義語が「楽観」となっているので、言葉の位置としてはこれで正しいのかもしれません。
『緋弾のアリア』というライトノベルの中に、「悲観論で備え楽観論で行動せよ」という言葉が出てきます。3.11のころ、防災学(だったかな)においてもこの言葉が一つの指標となっているのだという話が出ていました。備蓄のことなんかを考えると、確かにそうだと言えると思います。
現況の社会情勢もなのですが、3.11で福島原発がああなり、それから数年、2019年の台風15号によって千葉などで大規模の停電がありました。某電力の体質が楽観的なものであったかは知りませんが、報道された対応マニュアルや行動を見ていて、個人的には世間一般で言う楽観的と言えるものだったのではないかと思います。というか、3.11周りは推察するだけなら正邪どうとでもできる(あえて詳しくは書きません)のですが、まさか土砂崩れや地盤崩壊による電線の切断という明らかに起こりえることに対する備え(関西電力は、同じような有事には強制的に工事作業を執行できるような取り決めが行政との間で行われているという話をしていました)もなかったし、3.11以降策定してもいなかったのかという呆れの感情も個人的には起きました。
そもそも、悲観的というのは「アレコレ(主にマイナス方向に)考えてドツボにはまる」ような状態のことを言うと思います。なら対する楽観論は、「何も考えずに適当に済ます」のような説明になると思うのですが、それはなんとなく違う気がします。しかしなんというか、割とこの主義が多勢を占めているように思えてなりません。
否観論≒>中立>>悲観論>>理論による対策>>楽観論
自分は、悲観論の先に楽観論があるのではないかと思います。悲観論はどうにも忌避されがちというか、むしろ回避・唾棄するものであるように思われている感がありますが、そもそも問題を洗い出すのは悲観的でなければ不可能のように思います。
私的な話ですが、卒業論文の発表の際、ある教授から「自分は楽観論者なので、福島のことはどうにかなるんじゃないかと思っているけれど君はどう思う?」みたいなことを問われました。その時の自分の回答としては、「確かに向こう100年ほどでも放置すれば生物が問題なく暮らせる環境に戻るとは思いますが、それは無責任で違うと思いますし、一日も早く人の手でなんとかするべきだと思います」というような返答をしました。もちろん、その教授が「ほっとけばいい」というような意図で言ったのではないということはわかっています。けれど、本来的なことを言えば「そうならないためにあらゆる対策を考えなければいけなかった」のであり、最悪を考えて行動するべきだったのだと思います。というか、福島以前に原発事故はいくつかあったわけですし。そもそも、それ以前にも色々あったわけですし。
なんというか、リスク管理の最低(あらゆる状況で最悪手ではないと思いますが)にはおそらく「逃げる」という選択肢があるわけで、「楽観的であること」と「何も考えていないこと」は恐らく多くの人の中でイコールでは結ばれないと思いますが、実質的には割とイコールなんじゃないかなと思います。
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